2000年から2010年にかけて、南シナイ・ヘレニズム考古学調査団が聖カタリナ修道院の東/南東、城壁の近くで行った発掘調査によって、3つの建物群が発見された。
コンプレックスIはほぼ正方形のプランで、50×50メートル以上の大きさがあり、囲い壁で囲まれ、ほぼ同じ大きさの長方形の部屋が互いに隣接している。コンプレックスIの南側に位置するコンプレックスIIは、約17 x 15.50メートルと小さく、傾斜地のため向きが異なっている。コンプレックスIIIは、以前のコンプレックスIとIIIの間に位置し、完全には発掘されていない。
出土品の大半は、ローマ時代後期の粗製陶器の破片で、主に調理用と貯蔵用の壺である。さらに、後期ローマ時代の赤いスリップウェアの破片が出土したが、そのほとんどはエジプトのカテゴリーに属するもので、年代は圧倒的に7世紀と思われる。ガラス瓶の破片、粘土製のランプ、コインも数点出土した。小規模の金属遺物からは、この遺跡の住民の日常生活の様相がうかがえた。ドアロック、鍵、釘、ランプ用の鎖、医療器具、ナイフなどが、住民の活動を物語っている。
多数の囲炉裏の砂、大量に出土した銅合金と鉄は、金属工房の存在を示している。この工房で、銅合金や鉄の道具や武器が作られたり、修理されたりしていたようだ。工房の機能は、おそらくこの遺跡の居住の最も新しい段階に関係しているのだろう。
発掘された遺跡は、ユスティニアヌスが築いた要塞フィラクテリオンと同定されている。プロコピオスの『De aedificiis』(V.8,5-9)によると、ユスティニアヌスはシナイ修道院の建設中に、修道院を守るためのフィラークテリオン(「天守閣」)を建設した。さらに、10世紀のアレクサンドリア総主教エウテキオスは、ユスティニアヌスによる修道院の設立に関する情報を記述する中で、修道院の守護者と使用人として、200人の男性とその家族が設置されたことに言及している(PG 111, 1071-1072)。具体的には、修道院の東にある要塞に彼らのための住居を建設したことが言及されている。エウテキオスは、この場所の放棄をアブド・アル・マリク・イブン・マルワン(685-705)のカリフの時代と結びつけているが、これは考古学的発見や発掘データと一致している。 SKV-MPK